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理系革命!夢へと続く道!

ある一人の東工大生は、理系革命を起こしたいと思っている。

科学者の持つべき一種の哲学とは何か?

 難解なテーマですが、これを語らずにはいられなかったため、記事にしました。

  科学の世界は、一切の妥協を許しません。必ず、理論があり、実際にそれは自然現象を記述できるのです。実験結果、観測結果として現れるのです。これほど優れたものは他にありません。

 世界は混沌としていて、一体何を信じればいいのか分からないでしょう。毎日のように様々な事件や事故が起きる一方で、ささやかな、つかの間の幸せのようなものを体感しながら生きていくだけでしょう。

  さて、科学(社会科学はともかく、特に自然科学では)を学び、研究している者にとっては、いったい何を生き方の基本とすれば良いのでしょうか。私は、科学を極めることで、自分なりの哲学を身につけるしかないと思っています。以前にも述べたように、東工大リベラルアーツセンターの先生方の中には、「東工大生は人間性や教養が欠如しているから、もっと「文系」の教養をつけなさい」と言う人がいます。しかしながら、これは本質的な意味で間違っています。なぜならば、文系(とくに人文学)の教養は、主観的な見方のひとつでしかなく、体系化された学問とは言えないからです。生半可な薄っぺらい”教養”は、科学を専攻する学生にとって、何の救いにもなりません。そんなものを勉強するくらいならば、自然科学や工学の専門書を何冊も読むべきでしょう。それが、一種の哲学であり、生き方の基本になると、私は思っています。

 

何のために大学に行くのかー大学生活はモラトリアムではないー Part2

 続きです。

 大学とは「高等教育機関」です。学校教育法で、そのように定められています。

 

ー学校教育法第八十三条

「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」

 
 大学生の皆さんは、これを知っていましたか?
 
 さて、もう僕がお伝えしたいことはお分かりかと思います。人生には、いわゆる遊びも大切です。気分転換も必要です。
 
 大学生の皆さん、人生で本当にしたいことは何ですか?自問自答してください。

何のために大学に行くのかー大学生活はモラトリアムではないー Part1

 大学生の期間はモラトリアムの期間だと思って、学業よりも、旅行、サークル、コンパ、アルバイトの方が楽しいという人は結構多いと思います。僕は、一概にそれを否定しません。しかしながら、そのような考えの人はもう一度よく考えてみてください。

 ”なぜ、大学に入ったのですか?”

 何かの学問領域に興味を持ち、その知見を用いて職業を持とうとしたのではありませんか?そうでなければ、大学に入るのは止めてください。

 

更新再開のお知らせ

しばらくの間、更新を休止していましたが、思うところがあり、

再開することにしました。よろしくお願いします。

真の教養は自発的に身につけなければ意味がない

 これは半ば特定の人々を批判する記事になってしまうのですが、僕としては、やはり今までどうしても言いたかったことだったので、記事を書くことにしました。

 東工大では教育改革の一環として、カリキュラムを、今までの専門性重視から教養・リベラルアーツ重視の傾向にするようになりました。と言っても、依然として専門性の高さは維持されると思っています。

 しかしながら、ここで考えるべきことは、リベラルアーツセンターの人々の言動や発言です。「東工大生は専門性はあるけれど、人間性や教養が足りていない」そういった内容のことをよく口にするのです。それが、本当に東工大生のことを思って、愛情を持って言ってくれているのなら理解できるのです。残念ながら、僕にはそのように感じられません。リベラルアーツセンターの人々の発言は、ネットで検索すれば色々あるので、是非読んでみてください。少なくとも僕は、そのように自校の学生のことを傷つけるようなことを言う教員のことを好きになることはできません。

 教養とは、授業で強制されて身につくものではありません。むしろ、自分の専門性を高めていく中で、人間や社会について様々なことを知らなければならないと悟るようになり、自発的に教養がつくようになると僕は考えています。教養を知ったつもりになって、斜に構えた人間になるより、自分の専門分野に純粋に取り組める人間のほうが、よほど格好良いと思いますが、僕の考えは間違ってますか?

 

閃きの種とはーインプットとアウトプット

 勉強において大事なことは、インプットとアウトプットの相互作用であると思っています。例えば、教科書を読むことはインプットですが、それだけでは理解を定着させることはできません。問題演習、すなわちアウトプットの練習が必要になってきます。これは、座学であっても実験・実習であっても同じです。

 学問(とくに理系学問)は専門書を読む→演習問題を解く→解答と照らし合わせる、ということのサイクルによって理解が定着することは、僕が確実に体感してきました。

 また、未開拓の領域(研究領域)においては、その周辺領域の様々な基礎理論に触れることが必要になると思っています。僕自身はまだ高専でしか研究を経験していませんが、(4月から大学の研究室配属です)研究においては泥臭い作業も必要である一方で、確固たる基礎理論の基盤が必要不可欠であると確信しています。

 そして、例えば研究や勉強での一種の閃き(インスピレーション)の種とは、結局のところ、上述したような事の積み重ねの末生まれてくるものだと思います。僕も、このような閃きが突然降ってくることを何度が体験してきました。でもそれは決して偶然ではなく、ある意味必然的なものであると、今ではなんとなく感じている次第です。

 

 

付加価値の問題および大学教育についてー理系と文系の違いとは?

 高度経済成長期を経て、経済的には成熟しつつある現代日本において、大きな付加価値を産み出すことは容易ではないかもしれません。付加価値とは何か、ということを考えていると、「社会問題の解決」ということに重要な鍵があるだろうと気づきました。

 理系・文系という二元論的な分け方はあまりしたくないのですが、文系の人と比較すると、やはり理系の人は専門的能力や技術を修得しているので、社会的に重要な付加価値を産みだす潜在力を秘めていると言えると思います。文系の人はどうしても、高度な専門職に就く人以外は、「文脈的」な仕事をせざるを得ません。それは、単刀直入に言うといくらでも替えの効く仕事ということになります。

 僕は文系の人を否定しているのではありません。しかし、もっと努力できるだろうと思う訳です。もっと勉強して欲しいのです。

 そして、高等教育機関である大学が、まさに高等教育を授けているのかどうか、審査を行うべきだと思っています。大学はモラトリアムの期間であるという考え方は既に時代遅れのものであり、確実に社会のレベルを落としてしまいます。

 ですから、この21世紀は、市民全体が、教育とは何か、社会とは何か、深く考える時期であると思っています。一人一人の意識改革はもはや必然的なものなのです。